2016/02/27
完全なるディスコグラフィへの道 その6
今回のテーマは「編曲版」です。
オーケストラによる演奏は勿論のこと、ピアノや弦楽合奏のための編曲による演奏も含む。(吉井新太郎氏、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」ディスコグラフィ)
特別な場合を除き、一部楽章(特に第4楽章)のみの演奏およびピアノなどへの編曲版も除外しました。(高橋敏郎氏、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱」ディスコグラフィ)
編曲版の取り扱いはディスコグラフィの編者によって判断が分かれます。ひとくちに「編曲」と言っても、編曲者の「知名度」や編曲作品としての「クオリティ」によって人々に寛容に受け入れられたり、あるいは拒絶されたりします。しかし、ディスコグラフィとはディスクの形で残された録音を悉く調べ上げることが本分であり、例えばラヴェル編曲のムソルグスキーの「展覧会の絵」はよいが、何処の馬の骨か知れぬ者の編曲は対象外と線引きするならば「主観」「恣意的」の謗りを免れない。
そもそも「編曲版を対象とするかどうか」という問題提起自体、編曲に対する微妙な感情が滲んでいるうえ、実は「編曲とは何か」という定義も人によって様々で、金子建志氏がベートーヴェンの交響曲第7番の第4楽章でスラーを取って演奏する解釈を「編曲」と評していたことには驚きましたが、対極には自由すぎて原形を留めない「作曲」のような「編曲」もあったりして、何処まで対象で何処から対象外なのか、自分の立場を明らかにする必要があります。取捨選択とは自分の価値観と対峙することに他ならないのです。
<曲名>
交響曲第5番(ベートーヴェン)
♪近衛秀麿指揮読売日本交響楽団(1968年録音)
http://tower.jp/item/3951825 (試聴できます)
ベートーヴェンのオーケストレーションをよりはっきりと響かせるための改訂は随所に行われている。いわゆる「近衛版」による演奏なのである。たとえば第1楽章では228小節の頭のティンパニ追加がそうだし、478小節ではなんと主題を強調するために、全パート、頭の8分音符をすっぽりカットしてしまっている。(宇野功芳)
ベートーヴェンの5番には「近衛版」のほか「マーラー版」もありますが、あえて「版」とか「編曲」と銘打っていなくてもホルンなどでオーケストレーションを補強する指揮者は(特に昔は)枚挙にいとまがありません。このような演奏をディスコグラフィの対象とすることには多くの方の同意を得られるのではないでしょうか。
実際、もっと大胆にオーケストレーションを改変したモーツァルト編曲やグーセンス編曲のヘンデルの「メサイア」だって、同曲のディスコグラフィから除外されないでしょう。そうならば、河邉一彦編曲のマーラーの「巨人」吹奏楽版(川瀬賢太郎指揮東京佼成ウインドオーケストラ)もすぐ目前です。
【ケーススタディ】室内楽版
♪Van Swieten Society(2014年録音)
https://www.youtube.com/watch?v=fsjcAVA10V0 (冒頭のみ:1分30秒)
ベートーヴェンの友人だったフンメル編曲による四重奏版(ピアノ、フルート、ヴァイオリン、チェロ)はいかがでしょう。このようなサロン編曲は当時の「あるある」で、ベートーヴェン自身の編曲による交響曲第2番のピアノ三重奏版、交響曲第7番の木管アンサンブル版もあります。バッハやヘンデルも自作の使い回しに伴う編曲は日常茶飯事でした。作曲者自身の編曲だったら文句ないですか?
♪グレン・グールド(ピアノ)
交響曲に限らず、オーケストラ譜のピアノ編曲は特に協奏曲では日常茶飯事です。子どもの発表会からプロオケのオーディションまで、弦楽器にせよ、管楽器にせよ、世界中で演奏される協奏曲の大半は実はピアノ伴奏ではないでしょうか。オイストラフやミルシテインをはじめ、往年の巨匠もピアノ伴奏でヴァイオリン協奏曲のライヴ録音を残しています。
♪ポール・モーリア楽団 https://www.youtube.com/watch?v=47o5cFX-7f0 (2分52秒)
♪上海太郎舞踏公司B https://www.youtube.com/watch?v=85tsnqc3jHM (4分13秒)
ひとくちに「編曲」と言っても様々ですが、原形を留めないようなものは取り上げません。ここに挙げた2つの編曲はどちらも第1楽章のみで、しかも途中カットがありますが、特に後者はスコアの再現性とバカバカしさを高度に融合させた絶品で、これを対象外にする理由が見つかりません。日本人(日本語が分かる人)にしか通用しないけど。
(次回につづく)